作家吉川英治の過去
本日はちょっと興味深いお話をさせていただきます「吉川英治」1892年〈明治25年〉8月11日 - 1962年〈昭和37年〉9月7日)は、日本の小説家。本名:吉川 英次(よしかかひでつぐ)。現在の神奈川県横浜市中区出身。文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。様々な職についたのち作家活動に入り、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は多くの読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層に親しまれ「国民文学作家」と呼ばれた。宝塚市千種の地名の名付け親。作家としての彼はほとんどご存じですが本当は「蒔絵師(かみえし)」になるのが夢だったそうです「蒔絵」は職人漆器に金・銀の粉で絵や文様を描く「蒔絵」の 蒔絵とは、接着力が非常に強い漆の性質を活用し、漆で描いた絵や文様の上から金・銀の粉をまいて付着させる装飾技法のこと。 漆器、家具、仏壇、万年筆などの装飾に用いられている。現在での「吉川英治」とは皆さんかけ離れているでしょう22歳で独立しましたが仕事が不況になり、その日暮らしとなったのです。その後仕事を転々としていました。当然生きるためです。その時に書いた俳句があります「つゆのたま どうころんでも つゆのたま」なかなか含蓄のある俳句です。皆さんはこの俳句を「どうとらえますか?」国語ですので答えはないと信じています。みんなの想いが違うからみんなの解釈があると思います私はこう思いました「われの心の情熱は一杯あるけれど、今自分がどうにもできない自分は所詮われの心の情熱は一杯あるけれど、今自分がどうにもできない自分の情熱は誰にも届くことはないだろう」と思いました皆さんもそれぞれ「観念」がありますよね?これがのちの作家吉川英治の基となるかなって?思いました。食べるために何回も転職したとゆうところは私と同じです。私はその会社のノウハウがわかれば必要ありません。将来独立を考えてましたが病にかかってしまいました。